吉本光蔵(よしもとこうぞう/みつぞう)撮影日露戦争写真
吉本光蔵と日露戦争写真について
吉本光蔵は明治時代に活躍した海軍軍人(1863年11月16日[文久3年10月6日]~1907年[明治40]6月11日)。明治11(1878)年6月、14歳で海軍軍楽隊の第1回通学生10名の一人に採用され、楽生として正式入隊、翌年3月よりお雇外国人フランツ・エッケルト(Franz Eckert,1852-1916)にドイツ式の軍楽教育を受ける。海軍は、明治2(1869)年にイギリス陸軍軍楽隊長であったフェントン(John William Fenton,1831-1890)が薩摩藩士に軍楽指導を開始して以来、フェントンが明治10(1877)年に離日するまでイギリス式教育を受けたが、吉本は初めからドイツ式で育った第一世代にあたる。専門楽器のクラリネットのほか、ピアノ、作曲、編曲などを学んだ。
明治13(1880)年より海軍楽手、海軍楽師と進み、明治27(1894)年海軍軍楽師となる。明治29(1896)年4月には東京音楽学校の演奏会で、幸田延のピアノ伴奏によりモーツァルト作曲「クラリネット五重奏曲」K.581の第2楽章を客演した。明治32(1899)年5月13日ドイツ留学を命じられ、8月20日ベルリン着。翌年10月にベルリン音楽院に入学するもわずか1年半後の明治35(1902)年3月帰国命令、6月帰国。同年士官(少尉)相当の海軍軍楽長となり、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」に乗り組み従軍した(明治36年12月28日~38年3月15日)。
従軍中に撮影した46枚を一冊にまとめた写真帖が本資料である。吉本自身が写真に説明を書き添え、1枚目に明治37年3月6日と記されている。
凱旋後の明治38(1905)年8月より日比谷音楽堂において海軍軍楽隊と陸軍軍楽隊の演奏会が始まり、吉本は明治40(1907)年5月まで横須賀海兵団軍楽隊を11回指揮したが、同年6月11日、45歳で世を去った。
写真帖は吉本光蔵の親戚にあたる菊池武篤氏より平成23(2011)年7月に大学史史料室に寄贈された。吉本作曲「東京湾大観艦式記念行進曲」、「君が代行進曲」等の出版譜、吹奏楽用に編曲した「征清軍歌」や各国国歌等の手稿譜、ベルリン留学の終わり頃から帰国後にかけて書かれたドイツ語の日記などがあり、日記も公開を予定している。
吉本光蔵については、塚原康子・平高典子「海軍軍楽長・吉本光蔵のベルリン留学日記」(『東京藝術大学音楽学部紀要』第37集、2012年3月、43-60頁)、塚原康子「日露戦争時の海軍軍楽隊―海軍軍楽長・吉本光蔵の明治37・38年日記から―」(『東京藝術大学音楽学部紀要』第40集、2015年3月、71-89頁)、谷村政次郞『日比谷公園音楽堂のプログラム-―-日本吹奏楽史に輝く軍楽隊の記録』(つくばね舎、2010)参照。