山田耕筰著『若き日の狂詩曲』の直筆原稿について
資料の概要
本資料は、《赤とんぼ》《からたちの花》《この道》などの歌曲やオペラ《黒船》の作曲者として知られる山田耕筰(明治19(1886)年6月9日〜昭和40(1965)年12月29日)の自伝『若き日の狂詩曲』(大日本雄辯会講談社、昭和26(1951)年初版)の最終原稿です。60代半ばの山田が、幼少期からドイツ留学を終えて帰国するまでの前半生を綴っています。原稿は400字詰めの「耕筰用箋」(山田耕筰特注の原稿用紙)に書かれ、「序」「本文」「跋」をあわせて509枚です。
『若き日の狂詩曲』は、初版から平成15(2003)年まで、複数の出版社から別タイトルでの出版を含め、九つの版を重ねてきました。しかし初版の最終原稿は、当時の編集者・窪田稻雄氏の手元にそのまま保管され、平成21(2009)年12月、同氏より東京藝術大学に寄贈されました。
山田耕筰と東京音楽学校について
山田耕筰が東京音楽学校に学んだのは、明治37(1904)年から明治43(1910)年でした。東京音楽学校には、予科から本科に進むコースと、教員資格を取得する師範科があり、山田はまず予科に入学しました。予科には35名が入学しました。教授には幸田 延(ピアノ、唱歌、和声学)・幸田 幸(ヴァイオリン)姉妹、橘 糸重(ピアノ)等が、外国人教師にアウグスト・ユンケル(August Junker, 1868-1945)、ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber, 1848-1923)、研究科には柴田 環(のちの三浦 環)、岡野貞一等がいました。本科にまだ作曲科はなく、山田は声楽を専攻し、明治41年3月の卒業演奏ではシューベルト作曲《菩提樹》を独唱しました。在学中にユンケルにチェロを師事し、研究科ではチェロを専攻しました。明治42年10月の学友会演奏会において、多 久寅(おおの ひさはる)、川上 淳(かわかみ じゅん)、大塚 淳(おおつか すなお)と演奏した弦楽四重奏「モザルト〔モーツァルト〕作曲 セレナーデ」ではチェロを担当しました。
研究科在学中にドイツから招聘されたチェロのハインリヒ・ヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister, 1830-1936)に作曲も師事し、ヴェルクマイスターの推薦により岩崎小彌太(いわさき こやた)男爵(1879〜1945)の援助を受けベルリン王立アカデミー高等学院に留学します。三年後に日本人初の交響曲《かちどきと平和》を作曲して卒業し、さらに一年間、ベルリンでR.シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)、スクリャービン(Alexander Scriabin, 1872-1915)等の作品にもふれ、交響詩《曼陀羅(まだら)の華》(1913)、《暗い扉(と)》を完成しました。
帰国後は、数々の歌曲の作曲とともに、日本の音楽家の社会的役割を高めることに力を注ぎます。作曲にあたっては、「マグダラのマリア」「ハムレット」「プリンスオブウェールズ」「サロメ」といったヨーロッパの題材とともに、「越後獅子」「吾妻八景」「寿式三番叟の印象による組曲風祝典曲」「源氏楽砧」「忠義」のような日本の伝統芸能および日本的な感性に根差した題材を選んでいます。たとえば、長唄交響曲《鶴亀》(昭和9(1934)年)では、西洋音楽の手法を駆使して長唄《鶴亀》にオーケストラを付け、西洋と東洋の融合を模索しました。一方、国内外に向けた活動として、自ら交響楽団を編成して定期演奏会を行い、アメリカ、フランス、ロシアでも自作自演を行いました。紀元二千六百年(昭和15(1940)年)には、ジャック・イベール(Jacques Ibert, 1890-1962)の《祝典序曲》を指揮し、自作の交響詩《神風》、オペラ《黒船》も初演しました。音楽家の活動に様々な制約のあった太平洋戦争中には、情報局管轄の日本音楽文化協会の会長となり、音楽挺身隊を結成して国民及び軍人への慰問や激励のための音楽活動を行います。この活動には東京音楽学校の卒業生からも参加者がおり、学校側は研究科生徒が音楽挺身隊の活動のために授業を欠席した場合は出席扱いとしました。山田は母校で教鞭をとることはなく、民間の立場から、官立の東京音楽学校に対して批判的でしたが、東京音楽学校の生徒にとっては憧れであり目標でもありました。
彼の戦時下の活躍は、戦後、批判の的ともなりました。しかし苦学した少年時代、音楽の原風景、流行歌を含む幅広い音楽に対する感受性が、彼の後年の活躍の原動力となることを自伝は語っています。西洋に学んだ成果を日本人として日本で生かすために彼が抱えた苦悩は現代にも通じるもので、今なお新鮮味を失うことなく、様々な問題を投げかけています。
原稿を概観して
筆跡については、少なくとも、著者、全体を清書した人物、編集者の三人の筆跡が認められます。本文は清書した人物の筆跡が多くの部分を占め、そこに著者がさらに加除修正を行っています。ただし、「跋」の筆跡は、カタカナ表記についての但し書きを除き、すべて著者のものです。
著者の加除修正をたどると、子供時代の古い話については読者に理解されやすいよう出版する時代に合わせた説明を加え、思いを寄せた女性について述べたところでは、幾度も書き直しを行っておきながら最終的にまとめて削除した例も見られます。原稿のデジタル画像によって、出版物の文面からは知り得なかった山田の執筆と推敲の過程を初めて知ることができ、山田の音楽家としての来し方、彼の信念、戸惑い、感性の豊かさ等がいっそう生々しく伝えられることが期待されます。
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デジタル化の作業報告
- 原資料の状態
原稿はある程度の枚数ごとに紙縒りで綴じて束にし、ところどころにホチキスを用い、二つ折り(山折り)の状態で保存されていた。束は章ごとのまとまりや一定枚数のまとまりではない。原稿用紙、紙縒りともに劣化がみとめられ、とくに山折りの表面になった頁に破損が目立った。 - スキャニングにあたり
原稿には山折り、貼り合わせのシワや折り目が多く、それを伸ばす準備作業を行った。
紙の傷み具合や折り目の状態が一枚ずつ異なるため、折り目やシワを状態に合わせて一枚ずつ伸ばした後、重しを数日間乗せておく方法をとった。紙縒りなど、ほどけるもの、ほどいて元に戻せる状態の束に関しては 一枚ずつのスキャニングを行った。ホチキスや紙縒り自体の劣化が激しい場合は、束のままのスキャニングとした。 - 作業者:澤原行正(音楽学部教育研究助手)[デジタル化の作業報告の部分を執筆]
- 作業期間:平成28(2016)年7月〜10月
- 使用機材:KONICAMINOLTA PS5000C MKII
- スキャン枚数:509枚
- スキャン設定:600dpi 大きさは原稿の大きさに合わせて変更
謝辞
資料の寄贈から今回の画像公開に至るまでに、窪田稻雄氏、窪田靜子氏、山田浩子氏、後藤暢子氏に特にご協力いただきました。お名前を記し、各氏に感謝いたします。