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村野弘二作曲 オペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉

村野弘二作曲 オペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉

『村野弘二作曲 オペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉』

*傍点筆者 以下同様

村野の「学徒出陣」と〈こるはの独唱〉

村野弘二(大正12[1923]年7月30日〜昭和20[1945]年8月21日)は昭和17(1942)年東京音楽学校予科に入学し、本科作曲部に進んだ翌昭和18年10月2日の「在学徴集延期臨時特例」(勅令第755)により12月「学徒出陣」となる。例年卒業式に卒業演奏会を行っていた同校では、在学中に出陣する学徒のため、11月13日、校内奏楽堂にて第149回報国団演奏会を「出陣学徒出演演奏会」と銘打って開催した。有志19名のうち1名を除き声楽や専攻楽器で出演した。例外の1名が、自作を発表した村野弘二であり、演奏された作品がオペラ《白狐》より第2幕第3場〈こるはの独唱〉であった。その2日後、東京音楽学校は49名**の出陣学徒の仮卒業式を執り行って生徒を送り出した。(**記録調査から暫定される人数)

現存する村野の作品は中学校時代まで辿る。音楽学校入学後はいっそう作曲に精励したと推測されるが、在学中の作品のほとんどが疎開先の福井県で空襲に遭い焼失したとされる。〈こるはの独唱〉は「出陣学徒出演演奏会」のために村野が《白狐》の必要なページのみ手元に残し、日本を離れる時に神戸の実家に預けて焼失を免れたものである。作曲年月日は記されず不詳。作品の表紙か曲頭か末尾に記されていた可能性もあろう。
仮卒業式を終えた村野は、入隊までの慌ただしいスケジュールの中、〈こるはの独唱〉を含む4曲の録音を行った。SP音源は現在、ご遺族が開設したサイトで公開されている。そのうち《君のため》を歌っているのは作曲者自身である。http://www.asahi-net.or.jp/~uw7a-mrn/KojiMurano/
 

のこされた楽譜 −−− ペン書きと鉛筆書きの2種類について

大学史史料室でデジタル化を行った譜面には次のような暫定4種類が存在する。

  1. 「ActⅡ.27」から「ActⅡ.37」まで。ペン書き。11ページ。
  2. 「ActⅡ.27」から「ActⅡ.37」まで。鉛筆書き。11ページ
    但し、次ページ冒頭に「extra.(こるは***の独唱 終結)(actⅡ.37よりつゞく)」という言葉と、音部記号のみ書かれている。***原文傍点なし。
  3. 「extra.(こるは****独唱 終結)(actⅡ.37よりつゞく)」と記された1ページ。鉛筆書き。
  4. 冒頭2ページのみ。ペン書き。****原文では文字の下に傍点あり。

上記のうち、「1」と「2」は曲の同じ部分のペン書きと鉛筆書きである。各ページの小節数も同じである。「1」もしくは「2」のあとに「3」が続き、曲を終結させる。「3」は鉛筆書き1種類のみ存在する。作曲者存命中の演奏と録音に使用された譜面は「1」と「3」と見られる。「1」と「2」のうち「1」が演奏に使われたと推測される根拠は、譜面に手油の汚れが目立ち、何度も捲ったことによる紙の端の擦り切れや破れがあり、丁寧なペン書きの浄書譜に、鉛筆でやや乱雑に強弱やブレスなどが書きつけられていること等である。
 
一般論では、鉛筆書きとペン書きの両方が存在すれば、先に鉛筆で書かれ、その後ペンで浄書されるケースが多いのではないだろうか。しかし〈こるは〉の「1」と「2」から推測されることは、作曲者はペンで浄書した「1」を演奏者に託し、練習に立ち会う中でそこに鉛筆で強弱記号を書き足し、音符を消すなどした。その結果をあらためてまとめたものが鉛筆書きの「2」ではないかということである。「1」に見られるやや粗雑な書き込みが、「2」では最初から想定されたものとして丁寧に書き込まれているからである。ゆえに「2」を当時の最終版と考えて良いであろう。
 
平成27(2015)年と同29(2017)年の演奏では、「1」と「3」が一続きのものとしてご遺族から提供され、これを用いた。それは平成の演奏者が、戦時中の演奏者と同じ譜面を見て演奏したことになり、それなりの意味があった。しかし全体の状況より、譜面の作られた意味が上述のように判明したことから、平成30(2018)年の演奏では、演奏者は「1」と「2」の両方を見て村野の意図をくみ取ることになった。とくにペン書き楽譜のピアノ伴奏の内声を鉛筆で消しているところや、書き加えた記号などからは、村野がいったん浄書した譜面を、実際の演奏に接して修正するプロセスも見え、興味深い。
 

〈こるはの独唱〉の前後(「1」の譜面に沿って)

譜面は「ActⅡ.27」から「ActⅡ.37」までページ番号が付され、「extra.(こるはの独唱 終結)(actⅡ.37よりつゞく)」につながっていく。27ページ冒頭には「(最後の狐の乙女退場)」というト書きがある。26ページまでに第一幕と第二幕開始部分が存在し、「狐の乙女」が登場する場面があったと推測される。27ページはピアノ独奏で開始するが、それは独立した1曲の前奏というより、場面転換の音楽である。37ページの次は38ページではなく、ページ番号のない補作「extra」に進む。38ページが別に存在したことを思わせる。譜面は丁寧に書かれて見やすく、インクも褪色が目立たず鮮明である。
 

《白狐》原作と〈こるはの独唱〉

《白狐》は、岡倉天心原作の英文によるオペラ台本(1913)である。村野が用いた歌詞は、譜面に書き込まれた訳詞から見て、清見陸郎(1986.10.11〜没年不明)訳『白狐−−音楽を伴ふ三幕の妖精劇(フェアリードラマ)』(1939)に基づくと考えられる。ただし、清見訳の「狐の少女」が、村野では「狐の乙女」になるなど、完全に忠実ではないところもある。ともあれ清見訳から3年後には村野は《白狐》を作曲していたのであり、その背景に、村野の姪・中林敦子氏のご指摘のように、弘二の12歳年長で岡倉天心に心酔していたという従兄・村野正太郎の存在も考えられよう。

狐の女王こるはは、かつて阿倍野の領主・保名(やすな)に命を助けられ、善行を積んで哀れな狐の姿から開放され、より高い生に転生するよう諭される。こるはは保名の妻・葛の葉姫が悪党に奪われ保名も傷を負ったのを知り、保名を慰めようと葛の葉に姿を変え保名と幸せな日々を送り子供も生まれる。しかし妻が戻ると、こるはは書き置きし、子供を残して去る。第二幕〈こるはの独唱〉はこるはが命の恩人・保名を救うため人の姿にかえてほしいと月に祈る場面。

第二幕は、「夏の夜。前方に水を湛へたる森。狐の少女等、半円を描いて立ち並ぶ」シーンに始まり、「第一の狐の少女」と「狐の少女達」が深い闇に狐火を灯し、愉しい明日を待ちながら交互に歌い躍る。やがて月が昇り耀きわたると少女達は退場し、狐の女王こるはが登場して歌う。以下訳文を記しておく。(旧仮名遣いはそのまま、旧字は新字にあらためた)
 

==月光耀きわたり、水の辺に凭[もた]れたる狐の女王こるはの姿浮き上る。後景に断崖と湖とが見える。
お月さま、
お独りで白々と、
星影もまばらに
水晶のやうな美しい夜空。
光は陰を追ひ
陰は光に交はる。
あゝ私は、
やつぱり白々と独りぼつちの私は、
宿世[すくせ]の業因[ごういん]で
今の形に閉ぢこめられてゐる。
曾てはあつた喜びも今は薄れて、
悲しみの前に砕かれてしまうた。
お月さま、あなたの純潔をお貸し下さりませ。
あなたの和らいだ光で罪深い私の魂をお濯ぎ下さりませ。
私はこれから保名さまの許へ
お嫁に行ねば〔ママ〕なりませぬ故。
恋路の闇に心も乱れ、
疵[きず]の手当もなされずに狂ひ狂うて、
当てどもなくあの方はさまよひ歩ひてゐられます。
私が葛の葉どのの姿になつて
あの方のこがるゝ胸の思ひを晴らしてお上げ申さずば、
玉の緒さへも断えるでござりませう。
今こそ私を浅ましい
畜生道から救ひ上げて下されあの方への
御恩返しをさせて下さりませ。
百合よ、素馨*[そけい。*ジャスミンの一種]よ、私にお前達の美しさをおくれ!
泥中から咲き出た蓮花のやうに、
きらびやかなお前達の衣装で包んで、
私を葛の葉姫と咲かせておくれ。
==こるは花を摘み、それを己が体に投げかくれば、忽ち姿は葛の葉姫と変る。保名よろめきながらに葛の葉のちぎれた片袖を掴んだまゝ登場。こるは立木の後に身を隠す。

「白狐 音楽を伴ふ三幕の妖精劇(フエアリー・ドラマ) 清見陸郎訳」『岡倉天心全集』決定版第二巻 昭和14年10月20日初版、昭和15年10月15日3版、著作者:岡倉一雄、発行:六藝社。

 

以下、「1」のページに沿って記す。鉛筆の書き込みにも見ていく。
〈こるはの独唱〉は、27頁【bykko001】狐の少女が退場し、深い闇のなかでごくごく弱く(ppp)始まる。やがてピアノの和音とcantabileが「(月が出て舞台は次第に明るくなる)」と指示された舞台と呼応するように何事かを予感させる。28頁【byakko003】の中ほどに書かれる「月光耀き渡り・・」の部分は清見訳と同じである。独唱は「お月さま!」で始まり、村野はそこに「自由に」と記す。「!」の記号は清見訳には無かった。狐の女王こるはが保名に寄せる思いを切々と歌うのだが、「自由に」の指示は、日本語の表現への留意と、作曲者の歌い手への信頼であろうか。出陣学徒出演演奏会でこるはを歌ったのは2学年上の戸田敏子氏(大正11[1922]〜平成27[2015])である。戦後、母校音楽学部教授となり、二期会理事長も務めた戸田が学生時代に歌った〈こるはの独唱〉がSPレコードに残されている。学生同士で模索し切磋琢磨した演奏は今なお傾聴に値する。同じく28ページの3段目には「注(もしくは”註”)」と鉛筆で書き込まれ、そこから1小節半にわたり内声に「8~~~~~~」と読める。29頁【byakko005】の下方に書かれた歌詞は清見訳と同じである。こるはが独りで煌々と輝く月に孤独な心を寄せ、月と語らう場面がここまで続く。

30、31 【byakko007、byako009】は自分の孤独と不幸を悲しみ、自分がこんな姿でいるのは宿世すなわち前世からの因縁のためだと嘆く。「せめてもの喜びも今はうすれて」のところにあるRecit.tempo ad libit.は、テンポにとらわれず語るようにとの指示で、ここでも歌い手の力量が試されるところである。30ページ【byakko007】には一息置く指示(∨)や急速に弱くする指示(>p、pp)が鉛筆で書き込まれ、基本的には書き方の特徴から見て作曲者自身の加筆と考えられるが、作曲者の言葉を受けて、演奏者が書き込んだ可能性も全否定はできない。ピアノは歌い手の自由な歌唱を支え、時には掛け合う。

32【byakko11】からはこるはが月に向かって願いを切々と訴える劇的で感情の起伏の激しい部分に入る。32ページには、書き忘れていた臨時記号が加筆される。練習の過程で加えたのであろう。したがってこの曲が生前に一度も演奏されていなければ、作曲者も楽譜を客観的にチェックする機会を得ず、後世の演奏家をもっと悩ませたかもしれない。

33【byakko13】1段目では、ピアノの内声を消し、アクセントを書き込んでいる。内声を消した理由が、演奏困難なためか、音楽的に不要と判断したためか定かではない。だが鉛筆書きの「2」では最初からこの内声は書かれていない。2段目ではピアノ伴奏の強弱に加え、こるはが歌う「前世の罪を」には「急に弱く」を意味するsubito P が2個書かれている。【byakko13】の「私はこれから」の部分には、ピアノ伴奏の和音のところどころの音符が丸で囲まれている。歌い手が音程を取りにくい音に対して、伴奏にある同じ音に丸印を付けたのであろう。このように楽譜「1」とその鉛筆の書き込みの跡は、村野が自作の演奏に夢中になることのできた最後の場面をも伝える。「学徒出陣」を控えた後輩に依頼された先輩も真剣だったことであろう。

34【byakko15】は保名の様子を描写し、35、36、37【byakko17、19、21】では畜生の狐から保名の妻・葛の葉姫の美しい姿を変えてほしいと願い、神仏に熱心に祈る。歌い始めの「保名さまは・・」のところに「かるく」と鉛筆で書かれている。つい激しく歌いがちな箇所に「pp」と「かるく」が併記されることで、演奏者は村野の意図を汲み取りやすくなろう。34【byakko15】から「extra」38【byakko23】は多くの言葉が語られる場面である。38【byakko23】の最後にこの部分の歌詞が書かれ、「(康註)こるは『美しい百合よ、美しい素馨よ』」となっている。素馨に対する注が36【byakko19】にあり、これに対応するのかもしれない。「康」は村野弘二の弟の名前だが、そのご息女・中林敦子氏によると二人の筆跡は見分けがつかないほど似ているとのこと。康氏の註が意味するところは何か、筆跡は誰のものなのか、今のところ判然としない。

人間と動物や性霊などが結婚する異類婚姻譚は、地域や国によって多様な設定がなされ、世界に広く分布する。日本では多くの場合、特殊な能力を持った野生動物を登場させ、自然界との親和性や仏教思想の影響等を背景に、崇高さと庶民的感情を融合・昇華させた物語を生み出してきた。岡倉は葛の葉伝説で英語のオペラ台本を書き、村野はその邦訳で作曲したのである。〈こるはの独唱〉は全曲のほぼ中央に位置し、前半の山場となるアリアである。

 

《白狐》の中の〈こるはの独唱〉

《白狐》の台本では、このあと保名の妻・葛の葉姫に姿を変えたこるはが保名の前に姿を現し、保名と歌い交わす。台本から推測して、こるはが独唱しそうな場面は第3幕に2回ある。一つはこるはが幼児に子守唄を歌う場面、もう一つは保名の妻が現れ、狐の姿に戻りながら子別れする場面である。それぞれどのような音楽が書かれたのだろうか。

昭和18年11月13日の演奏会では、村野の2年先輩で本科声楽部3年(入学して4年目)の戸田敏子の独唱と、戸田の「いつもいっしょにやっていたお友達」(2015年電話で)・本科器楽部3年の太田道子の伴奏で演奏された。SP録音のほうは戸田敏子の独唱と、村野と同期入学で本科器楽部1年の髙橋美代子のピアノ伴奏により行われた。

永井和子と森裕子にとって平成30(2018)年〈こるはの独唱〉の公開演奏は3度目となる。永井によれば、平成27年6月、渡された譜面を見ていると「永井さん、あなたが歌って」と「楽譜が言ってきた」そうである。演奏は、演奏家が譜面から音楽を掬い出して体現する行為であり、演奏者と作曲者の対話である。譜面を通じて作曲者は共に音楽を作り、共に聴いているのだろう。このようなダイナミックな音楽の生成は、演奏の度に新しく起こるものである。それゆえ譜面や音源がアーカイブ化されても、実際に演奏して歌い継ぎ、弾き継ぎ、聴き継ぐ行為が必要なのである。

永井と森は、平成27(2015)年7月27日の音楽学部第1回オープンキャンパス「戦後70年 夢を奪われた音楽学徒」の企画で戦後初となる〈こるはの独唱〉の公開演奏を行い、昨年(平成29年)7月30日「戦没学生のメッセージ」で再演した。

 

オペラ《白狐》の作曲と上演をめぐって

オペラ《白狐》の作曲と上演をめぐっては、東京藝術大学が創立120周年を記念して、平成19(2007)年12月8日、上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂にて、ボストン在住のピアニスト・作曲家の戸口純による英語台本に基づく作曲、高井優希の指揮、大石泰の演出により上演された。

また平成25(2013)年12月1日には新潟県の公益財団法人妙高文化振興事業団が妙高市文化ホール開館30周年記念に、平井康三郎(1910〜2002)の孫・平井秀明の翻訳・台本・作曲により《白狐》全三幕が日本語で「世界初演」された。村野弘二作曲〈こるはの独唱〉が東京音楽学校奏楽堂で演奏されたのは、妙高より70年早く、藝大120周年の64年前であった。