『學事年報 自明治三十八年度 至大正四年度』
資料の概要
本資料は、明治38(1905)年度より大正4(1915)年度まで、東京音楽学校長から文部大臣宛に提出された毎年の報告の控えを一冊に綴じたものである[1]。記載される項目は、概況、規程、設備、土地建物、職員の任免や俸給、生徒に関する報告、卒業生の進路等、多岐にわたる。
明治38年度の「概況」には「五月三日獨逸國皇族カール、アントン、ホーヘンツオルレルン殿下本校ヘ成ラセラレ職員生徒ノ演奏ヲ聞召サル」との記載が見られる。Karl Anton von Hohenzollern親王(1868−1919)はプロイセン王国のホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯爵家の一員で、日露戦争観戦武官として来日した。日露戦争の折にはオスマン帝国軍参謀大佐ペテルヴ・パシャPertev Paşa(ペルテヴ・デミルハン Pertev Demirhan, 1871−1964)も日本軍付観戦武官として来日したが、彼の回想記および日本滞在記の中で、エジプトからカール・アントンと同船したことが記されている[2]。しかし東京音楽学校への訪問および当日の演奏については、今のところ本記載が本学で唯一の記録で本学百年史でも取り上げられず、詳細は今後の調査に待つところである。
明治40年度「規程」には同年10月に設置された唱歌編纂掛および邦楽調査掛、41年1月に設置された楽語調査掛について次のような報告が行われている。
- 唱歌編纂掛は唱歌集の編纂を目的とし、目下中学唱歌の材料とする歌詞と楽曲を蒐集選択中であること。
- 邦楽調査掛は邦楽の調査と保存を目的とし、各派専門の技術家に委嘱して平曲、一中、富本、清元、長唄等について調査攻究していること。
- 楽語調査掛は、主として本校教授上に必要とされる音楽用語の調査飜訳を目的とし、参考書類を蒐集し調査中であること。
明治41年度以降の「概況」[3]では、とくに邦楽調査の進捗や成果報告としての公開演奏の曲目等ついて具体的な報告がなされている。
本資料の11年分では一貫して、「設備」の窮状を訴えている。明治23年に建設された校舎は「旧式」「小規模」「不完全」「危険」で、声楽や器楽の音響が甚だしく室外に漏れ、学科授業を妨害し、教育上困難が多く、2000人規模の奏楽堂が必要なこと[4]、またピアノについては、多数の生徒が交代しながら毎日12時間使用し[5]、使用に堪えない楽器が多数あるにもかかわらず、必要な買い換えや補充ができないことを訴えている。職員の出張には生徒修学旅行の監督も含まれ、静岡、江ノ島、箱根に旅行したこともわかる。
デジタル化の作業報告
- 原資料の状態
各年度冒頭に標題紙が付されている。中身は年度ごと、あるいは部分的にこよりで綴じられている。紙の大きさはおおよそB5判からA3判の間で、内容別に毎年ほぼ同じ種類のものが使用されている。紙の変色(経年変化)は、年度が古いほど大きい訳ではなく、紙質によるものと思われる。
文字の大部分は墨書されているが、大正四年度の一部に万年筆で書かれた箇所が見られる。訂正は墨書した訂正紙の貼付による。朱書は主に但し書きに使用されている。全体的に破損や虫損は無く、保存状態は良いと言える。 - スキャニングに際して
紙の端が丸まっていることが多く、伸ばしながら作業を行った。こよりで綴じられているものについては、外した後に元の状態に戻せるもの以外は外さず、二つ折りの状態でスキャンを行った。訂正紙は、貼られた位置や訂正前の状態がわかるよう、画像を複数に分けた。 - 補正方法
色合いに関して、画像の明るさが作業室内の蛍光灯下の実物と比べて際だって暗い場合や文字が読みにくい場合、個々の画像ごとに色調補正および解像度の補正を行った。Adobe Photoshopの色調補正機能を使用した。史料中の同項目内(同じ紙を使用している部分)では補正レベルを合わせるようにしたが、原資料の色合いが均一でない性質上、一冊を通して補正レベルを合わせる調整は行っていない。
作 業 者:湯浅のぞみ(大学史史料室デジタルアーカイブ特任専門員)[デジタル化の作業報告の部分を執筆]
作業期間:平成28(2016)年7月〜11月
使用機材:Epson ES-H7200
スキャン枚数:324枚
スキャナ設定:24bitモード、600 dpi。
Adobe Photoshop 補正範囲(解像度): 610〜622 dpiの間で補正。
[1]明治38年度および39年度は、前年度までと同様に9月11日開始し、翌年9月10日終了、明治40年度以降は、4月1日開始、翌年3月31日終了となった。
[2]横井敏秀「あるトルコ軍人の日本人論(1)日露戦争観戦武官ペテルヴ・パシャの見た日本」A Turkish Officer Pertev Paşa’s Observation on Japan (1) (『富山大学国際教養学部紀要』 VOL.4(2008.03)pp.165-174参照。また京都ホテルのホームページ「京都ホテル100年ものがたり」の「明治34(1901)年−−明治43(1910)年」の年表(http://www.kyotohotel.co.jp/100th/photo_nenpyo/nenpyo02.html)には「明治37年10月22日ドイツ皇族カール・アント[ン]・フォン・ホーヘンツォルレルン殿下、宮内省出張馬車にて来館」、同38年4月22日閑院宮殿下、ドイツ皇族アントン親王殿下入洛、来館」との記載が見られる。
[3] 大正元年以降は「概要」となっている。
[4] 大正元年度には「奏楽堂ハ二千人以上ノ聴衆ヲ収容シ得ベキ規模」を求め、大正四年度には「奏楽堂ハ約三千人ノ聴衆ヲ収容シ得ルニ足ルヘキ相当ノ施設ハ當面ノ急務」と記されている。
[5] ピアノの使用状況についての説明は使用時間数など、年度により少しずつ異なる。
學事年報資料画像
明治38年 明治39年 明治40年 明治41年
明治42年 明治43年 明治44年
大正元年 大正2年 大正3年 大正4年
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