佐藤明子氏ご寄贈
「正宏君の英魂に捧ぐ」との献辞がある。佐藤正宏は大正11(1922)年3月10日名古屋生まれ。6月生まれの恭一にとって三ヶ月違いの従兄である。軍人だった父の任地に伴い、正宏は内地に加え平壌や京城など各地の小・中学校に転校する中で、恭一と同じ県立愛知第一中学校に1年半在学し親交を深めた。昭和15(1940)年9月陸軍士官学校卒業、陸軍少尉。丸亀の歩兵第一一二聯隊付。翌年陸軍中尉。翌16年11月南方作戦に出発し、昭和17(1942)年2月24日ビルマ国にて戦死した。
作曲の時期は、後述の「表紙の消された文字について」を勘案し、早ければ鬼頭の東京音楽学校予科入学前、遅ければ同じ年の夏から秋頃と考えられる。ヘ長調、楽器指定のない、コラール風の17小節の曲である。譜面にあるAdagio(ゆっくり)、Grazioso(優美に)、Espressivo(感情をこめて)、dolce(やさしく)等の言葉は、正宏氏と曲への気持ちそのものであろう。楽譜は東京の佐藤家で焼失を免れた。原本は靖國神社遊就館蔵。
史料の現状
平成31年1月現在の状態を記しておく。譜面はA4サイズより大きめの、縦31cm、幅22.7cm(広げると45.4cm)のもの1枚である。もともと二つ折りの4頁であったと考えられる。遊就館が鬼頭家から託された状態では、二つ折り4頁の譜面をさらに半分に折り、A4サイズの透明袋に入れてあった。
五線紙は厚手でしっかりした紙質であるため、作曲から80年を経て弾性が失われ、ひじょうに脆くなっている。折目は、ほとんど断裂しそうな状態であり、危険箇所にはセロハンテープが貼られている。テープが音符の書かれていない側に貼られているのは幸いだが、そのテープも乾燥のため紙から離れ、テープ自体も乾燥でひび割れている。またこれまで目にしていたコピー譜には折目の線のみ写っていたが、原本ではテープを貼った跡が茶色に変色している。
表紙上部に水濡れのようなシミがあり、譜面上下の角が折れているが破損はしていない。譜面を開くと、何も書かれていない2頁目(表紙裏)にはテープの糊が滲み出て変色している。これは2頁目と3頁目の折目も同様である。
3頁目が音符の書かれたページである。裏面から貼られたテープのシミはあるが、ちょうど楽譜の2段目と3段目の間で、音符の書かれていない部分である。
4頁目は裏表紙である。譜面の上下を貼り合わせたセロハンテープは、その6割方がまだ貼り付いている。
譜面について
実際に書かれている頁は、表紙(1頁目)と3頁目(開いた時の右頁)である。
表紙
横書きで「鎮魂歌」。その下に、縦書きで三行にわけて左から「正宏君の」「英魂に捧ぐ」「鬼頭恭一」と筆書きされている。
譜面
すべてペンで書かれている。音符の譜幹(ぼう)もよく揃って丁寧に仕上げられる。定規も使用されたのではないかと推測される。修正の跡も見られない。別に下書きが存在したのであろう。タイトルは「Requiem」とのみ記される。「cresc.」のような略号に限らず「Adagio.」「Grazioso. Espressivo.」「dolce.」「calando.」のように、楽語に「.」が付されるのは作曲者の書き癖のようである。
表紙の消された文字のこと
譜面のスキャン画像の仕上がりを点検していると、ある箇所が白っぽくなっている。表紙の「鬼頭恭一」と記された左側が白っぽく、五線も薄くなっているのがご覧いただけるだろうか。作曲者名の左側に2行ほど、何か書かれてから消されたように見える。精度を上げて撮影し、コントラストを強くすると、次のように読めた。
「(正宏の従弟)当時東京音楽学校在学
(目下海軍少尉候補生)」
鬼頭恭一氏についての説明のようである。いつ、誰が書き、消したのか、筆跡にお心あたりがないか、恭一氏の妹様ご夫妻にご覧頂いた。正宏氏は恭一氏から見ると「従兄」である。佐藤正宏氏が亡くなったのは昭和17年2月24日、遺骨は同年8月20日に正宏氏の所属原課の丸亀に帰還し、合同慰霊祭など経て同年9月14日に自宅に還ったとのことである。読み取れる文字および正宏氏の情報から、この作品の作曲時期や、譜面が作曲者から遊就館に渡るまでの経路も様々推測させる。
メモは、作品が作曲された当時、恭一が音楽学校在学中であったことを記している。ただし在学が選科在学か予科あるいは本科在学かは不明である。作曲の時期についても、正宏氏の戦死がわかって間もない頃に書かれたと考えられてきたが、必ずしもその時に限定されず、帰還や慰霊祭などを経て作品を捧げる気持ちが強まった可能性も考えられるのではなかろうか。そして、書かれたタイミングは「目下」、すなわち恭一が「少尉候補」に命ぜられた昭和19年12月25日から、「任海軍少尉」となる翌20年6月1日の前日までの5ヶ月となる。楽譜は上記5ヶ月間の間に、おそらくは恭一氏自身(任務の関係では誰かに託された可能性も皆無ではないが)により佐藤家に届けられたのであろう。その後、鬼頭恭一もまた還らぬ人となり、恭一の遺品として佐藤家から鬼頭家に戻され、両親の元にあったのだろう。そして時を経て、恭一の弟・哲夫氏が遊就館に奉納したのではないか、と推測される。筆跡もすぐには解決しなかったが、後日、佐藤正知氏より父の字のように見えると伝えられた。恭一氏の殉職後は、「少尉候補生」は不似合いな覚書となり、鬼頭家に渡される時点で消された可能性が高いように思われるが、遅くとも靖國神社に奉納されるまでに消されたのであろう。
二人の若者の命が刻印された楽譜は、さらに双方の家族の想いも乗せて数奇な運命をたどり、Webサイトを通じて新たに蘇ろうとしている。
佐藤正知氏が、鬼頭恭一氏と佐藤正宏氏の軍歴をお知らせくださったので、ここに佐藤氏の許可をいただいて紹介しておく
鬼頭恭一 大正11(1922)年6月10日 名古屋市生
昭和年月日 | 奉職記事 | |
18. 3. 3 | 東京音楽学校予科卒業 | |
18.12.1 | 現役編入 | |
18.12.10 | 大竹海兵団ニ入団 | 大竹海兵団 |
18.12.10 | 海軍二等水兵ヲ命ズ | 〃 |
19.1.27 | 海軍予備生徒採用予定者トシテ | |
三重海軍航空隊ニ入隊ヲ命ズ | 大竹海兵団 | |
19.1.30 | 三重海軍航空隊ニ入隊 | 三重空 |
19. 2. 1 | 海軍予備生徒ニ採用 | |
19. 2. 1 | 兵役法施行令第十四条ニヨリ | |
海軍兵タルノ身分服役ヲ免ズ | ||
19. 2. 1 | 海軍予備生徒(飛行専修)ヲ命ズ | 海軍省 |
19.5 25 | 第一期予備生徒基礎教程修業 | 三重空 |
19.5.25 | 配属ヲ築城海軍航空隊ニ変更 | 聯空総隊 |
19.5.25 | 退隊 | 三重空 |
19.5.26 | 入隊 | 築城空 |
12.25 | 海軍 少尉候補生ヲ命ズ | 海軍省 |
〃 | 海軍練習航空隊特修学生被仰付 | 〃 |
20.5. 4 | 神町海軍航空隊ニ配属ヲ変更ヲ命ズ | 築城空 |
5.20 | 退隊 | 〃 |
20.6. 1 | 任海軍少尉 | 内閣 |
充員召集ス 昭和20年6月1日午13時00 | ||
現配転方(部隊)ニ参着スベシ | 海軍省 | |
7. 1 | 補第三一二海軍航空隊附 | 海軍省 |
20.7.29 | 殉職 (飛行訓練中) | |
20.7.29 | 任海軍中尉 | 内閣 |
42.11.25 | 44回 従7,旭6(第44回戦没者叙位叙勲により従七位勲六等旭日章叙勲) |
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