Language:
  • 日本語
  • English

鬼頭恭一 歌曲《雨》

◆鬼頭恭一 歌曲《雨》(佐藤明子氏ご寄贈)

「2604.10.30~2604.11.3完成 築城空にて」。皇紀2604年は昭和19(1944)年で「アレグレット」と同年の作品。譜面の最後に清水史子という作詩者名と「雨」の詩が書かれている。詩は婦人雑誌に掲載された読者の投 稿作品との伝聞があり、当時の婦人雑誌5誌にあたったが、確認に至らず、作詞者についても未詳である。小雨がけむり橘のかおる初夏(はつなつ)、南に散った「ますらを」の形見が女性のもとに届く。その哀しみは抑制されたた言葉に託され、歌曲《雨》は、初夏の情景に女性の哀しみを写し込み、劇的に歌い上げる。「《カルメン》のような血のかよった人間的なオペラが書きたい」と妹に語った、オペラ作曲家・鬼頭の片鱗が見えるだろうか。昭和50年9月、三宅悦子のソプラノと鬼頭の妹・佐藤明子のピアノが録音され、平成27年7月、本学オープンキャンパスのリハーサルにて演奏、同年8月名古屋のコーラスグループ「ココロニ」演奏会で公開初演。原本は靖國神社遊就館蔵。

佐藤正知様(正宏様令弟)、佐藤明子様(恭一様令妹)より資料提供とご教示、鬼頭正明様(甥御様)、讃井優子様(讃井智恵子様の御子息嫁御)、岡崎隆様のホームページより情報をいただきました

 

◆鬼頭恭一《雨》と《鎮魂歌(Requiem)》の楽譜原本について

鬼頭恭一作曲《鎮魂歌(Requiem)》と《雨》の譜面原本は、彼の弟・鬼頭哲夫氏により靖國神社遊就館に彼の写真、帽子、マフラー等の遺品ととともに奉納されている。演奏はこれまでご遺族所蔵のコピー譜で行ってきたが、このたびWebアーカイブズに電子コピーではない原本のデータを掲載するため、遊就館より一時借用・撮影し、ホームページ上の掲示をご許可いただいた。同館に感謝申し上げる。原本のみが持つ実在感と情報をご覧いただければ幸いである。

以下、《雨》と《鎮魂歌》の原本に接しての情報をお伝えする。

 

◇《雨》

五線紙は、縦25.7cm(約)、横37.4cm(約)(二つ折りで18.7cm)のもの3枚を重ねて二つ折りになっている(全体で12頁分)。

紙質は薄く粗く柔らかい。経年により酸化が進み茶色くなっているが、大きな破損や補修の跡はない。鬼頭氏の作曲当時の譜面原状を知り、作曲上の情報を把握するには比較的良好な状態と言えよう。五線紙の下端と横端の所々にシミが認められ、表紙の下方に小さな丸い欠損がある。
記入されているのは

1頁目(表紙):タイトルと作曲者名

3〜10頁目:作曲された譜面(歌詞も)(ページ番号が1〜8までふられている)

2、11、12頁:何も記入のない頁

表紙から歌詞まで、濃淡あるがインクで書かれている。

 

表紙:下線付きで 

鬼頭恭一曲.

3頁目   雨 

2604.11.3. 鬼頭恭一作曲.

とあり、適宜定規も使いながら丁寧に浄書していった様子が窺われる。

10頁(ページ番号「8」):冒頭に「2604.11.3」と記しながら、曲尾にあらためて「2601 10.30  11.3完成 築城空にて」と書き込まれている。

頁の下半分に、縦書きの歌詞がある。これまでコピー譜では作詞者名が「清水史子」か「清水文子」か意見の分かれることもあったが、原本では迷いなく「史子」と読める。書き直し等もなく浄書と考えられる。ペンの勢いや強さなどが克明に見えるのも原本ならではであろう。実際この五線紙に、明日の命をも知れない作曲者が音符を書き付けていたのである。

 

《雨》の楽譜について

楽譜が鬼頭家に渡され、遊就館に奉納されるまでのいきさつを、佐藤明子氏が讃井優子氏から情報収集してお知らせくださった。讃井優子氏は、鬼頭恭一氏の学友で、築城に帰省していた讃井智恵子氏の嫁御、つまり讃井家に嫁いだ方で、讃井智恵子氏から鬼頭恭一氏について数々の思い出を聞いてこられた。

鬼頭恭一氏は築城に配属されていた頃、東京音楽学校選科に半年ほど学んで郷里に帰省していた讃井智恵子氏と再会した。讃井智恵子氏は鬼頭氏から《雨》の楽譜をあずかって大事に所持し、それが戦後、鬼頭家に渡される。鬼頭家に届いた頃のことは佐藤正知氏の日記に基づく。

正知氏によれば、

「1975年(昭和50年)9月19日、同月の23日に名古屋で開かれる恭一を偲ぶ会のことで、当時未知だった讃井智恵子さんから明子に電話がありました。恭一が1944年10月に作曲した「雨」を、明子のピアノで誰かに歌ってもらい、それをテープに入れて持って行きたい、ということでした。明子はとりあえず友人の三宅悦子さん(武蔵野音楽大学声楽科出身)に歌をたのみ、渋谷で讃井さんに会ってコピーをもらってきました。そのとき、この歌は和歌山のなんとかいう女性の作詞で、雑誌に載ったのに恭一が作曲したもの。遺骨を迎えた人の気持ちをうたったもの、という説明を聞いたそうです。

明子は当時やっていたエレクトーンの出張レッスンを休んで「雨」の練習。自宅のピアノ(恭一がかつて弾いていたもの)は調律してなかったので、近くの姉(加藤三保子)の家(恭一が音楽学校生の1942-43年に住んでいた家)にあるピアノを使うことにしました。難しくて一度はお断りしようかとも考えましたが、名古屋の兄・哲夫夫妻からのたっての依頼もあり、猛練習に励みました。そして9月22日、三宅さんに来ていただき、「雨」を3回カセットテープに録音しました。2回目のテイクがベストだったようです。ピアノは違いましたが、恭一のベッドとピアノがあった仕事部屋で「雨」の録音が行われたのは因縁めいたものがありました。

翌23日、名古屋に行かれる讃井さんと会って(何所で会ったか正確には覚えていませんが、たぶん東京駅)テープを渡しました。その日の夜、名古屋では、大雨の中「海軍」というバーで「偲ぶ会」が開かれ、母、哲夫夫妻、正明や元同僚など25人ほどが集まったそうです。そこでは讃井さんが自作の「惜別の譜」(恭一編曲)をエレクトーンで演奏され、「雨」のテープも紹介されました。(このバーは、旧海軍の関係者たちがよく集まる場所で、皆さん、亡くなった戦友たちに自分が生きていることを申し訳なく思っておられるそうです。)

確言はできませんが、「雨」のオリジナル楽譜は、讃井さんが名古屋に行かれたこの機会に鬼頭の母に渡されたものと思われます。」

このように当時の明子氏の演奏もコピー譜によって行われていたのである。

Images

 各データは以下のライセンスでご利用頂けます。

by

演奏会、放送などでご利用の際にはクレジットを入れてお使いください。
(クレジット: 東京藝術大学 音楽学部大学史史料室)
また可能であれば、チラシや演奏会プログラム、音源などを一部ご提供いただけれは幸いです